人が、家を建てるまたはリフォームをする理由として、いくつか考えられます。ひとつは、家族構成が変わるかまたは、変わる可能性があるときです。子供が結婚して同居するとか、都会に出ていた子供が家族共々帰ってくるとか良く耳にします。賑やかになる様を想像すると微笑ましく思います。逆に、子供が就職や結婚で出て行くとか、家族が亡くなってしまうことが考えられます。やけに広くなり心淋しくなるだろうなと想像できます。
それと、大きく生活スタイルが変わるかまたは、変わると予想されるときです。子供たちが大きくなり、独立した部屋が要るようになるとか、転職で家の一角を職場(最近だとSOHO)
にしたいとか、家族の誰かが、体が不自由になりバリアフリー化しないといけなくなるなど様々な理由が考えられます。
上記のように家を触るということは、生活や生き方の一部または全てが表出する行為です。「のびのび空までの家」は、子供たちの成長に合わせ、独立した部屋が要るようになったパターンです。元は古い納屋の2階で若夫婦と3人の元気な子供たちが生活していました。計画は単純に子供部屋を確保するという最低限度に留めることも出来ましたが、打ち合わせを重ねる度に、親が子を思い成長を願う気持ちが伝わってきて、「成長を願う」をコンセプトとして定め、形にすることにしました。開放的で素直な子供たちが、このまま伸び伸びと成長するようにと、子供部屋は南面させ南北にデッキを設けて外部とのつながりを持たせました。子供部屋同士も可動する壁で区切られていて、それぞれ行き来できるようになっていて、全ての方向に閉じることなく自然や人の気配を感じながら、暮らせるようになっています。また永遠の成長を願って、それぞれのロフトには空につながる大きな眼(まなこ)をつけました。「思い」を形作ると、家族の「らしさ」が表情となってお目見えすることになります。
昨今、家屋は家電並に、修理せずいきなり解体処分して購入(建てる)するという大量生産大量消費型となってきました。「修理より建て直した方が安くて快適だ」という話をよく耳にしますが、胡散臭く何か裏があるように思えてなりません。資源も景観もみんなの財産です。個レベルで考えるなら、他人が散財している様に出くわしても意にも留めませんが、グローバルに考えた場合、他人事には思えないのです。
と言いつつ、雀庵もご多分に漏れず、新しい離れ(といっても30年以上経っている)を残し、主屋を解体して立て替えることになりました。長年住み続けた家に対する思いと、快適なライフスタイルへの憧れが家族の葛藤でした。そんな時、私は打開策として必ずやることがあります。家の遺伝子を新しい家に移すことです。家の遺伝子は、家族の思いを形として残すことになります。多く残せれば、資源の再利用にも繋がり、大量生産大量消費型に対抗し貢献できると声高らかに語っていますが、実は破壊を続けている自分への言い訳の何物でもありません。主屋を残すことに何故もっと精力を傾けなかったのか等々と反省をしつつ、スクラップ・ビルドのバランスと意味づけは、決して忘れてはならないと肝に銘じています。
篠山の玄関あたる旧丹南町杉に「杉塀の家」があります。
篠山は、昨年重伝建地区に指定されるなど、古い街並みが数多く残る町ですが、昨今駅・インター付近に利便性から、戸建て住宅やマンションのミニ開発が進んでいます。画一的な表情の家に対し、地域材(木・土)を使用しながら、「篠山らしさ」を表出した家ができないかという思いの中で、「杉塀の家」が生まれました。「篠山らしさ」を表出することは只単に形式を継承することではありません。たんばの伝統的間取りを現代風にアレンジし、伝統的暮らしを今のライフスタイルに合った生かし方ができる家の提案となりました。
敷地内同居することになった若夫婦。開放的で健康的な家を望んでいました。限られた敷地の中で、親を気遣い迷惑を掛けず暮らす方法を考える今時珍しい若夫婦でしたが、そこは若い二人、おしゃれに敏感な一面も兼ね備え、ヴァナキュラーな材で手作りする「おしゃれ」も心得ていて、立体四つ間取りの古風さを咀嚼する柔軟さが、何とも眩しく感じました。自然に肩肘張らずに暮らす彼らには、自然体の家が良く似合います。
スキッププランの開放的な住空間は、四つ間取りを立体的に表現したもので、家の中央を、「土間(にわ)」のイメージとしています。「土間」で家事をするお母さんの存在が、ご飯の炊ける匂いやまな板をたたく包丁の音と共に、家中に広がります。前栽に面する「御上(おえ)」と、大きな階段や上段の間は、儀式の場としての「座敷」で、立体的なパーティ会場となります。二階も「土間」と吹き抜けで繋がり、間仕切りのない「ナンド」(子供部屋)と「オクナンド」(寝室になっています)があります。「土間」「御上」「座敷」「ナンド」「オクナンド」で構成される四つ間取りの変幻自在さを踏襲したのが「杉塀の家」の特徴です。
伝統的間取りの家は、家族の流れや出会いを生み、気持ちを繋げます。よどみは、家族の活性を阻害するものだと思います。気遣い、思いやりがあってこその家族だと思います
住みたい町ランキング上位に位置付けられるたんば(篠山市と丹波市を総称し平仮名表記しています)に住み暮らす楽しさを、設計という立場で係わった住宅を題材に、お話したいと思います。
旅先の秘境で人里を発見すると漠然と不便だろうなとか、都会のど真ん中で軒が重なり合う町屋をみると、田舎者の私には、とても住めないだろうなと感じます。「住めば都」人々は、不便でも息が詰まりそうでも、良い所も沢山あって、暮らし続けられるのでしょう。人の順応性には感心します。尤も訳有って仕方なく住んでいる人も沢山居られるのでしょうが。
話は少し横道に逸れますが、たんばでは茅葺民家を「くずや家(お粗末な家の意)」と呼んでいます。多分瓦屋根の家が建ち始めた頃に出来た言葉だと思います。差詰め現代版「くずや家」は、クロス・サイディング・コロニアル葺きでないものが該当するのでしょうか。となるとへそ曲がりな私などは、断然「くずや家」派なのですが。また最近は、ちょっとした古民家ブームで、本屋の棚には、古民家や田舎暮らしを特集した本が数多く並んでいます。ブームに乗って、古民家に住み続けようと意気込んでも、実際は暗いし寒いし改修すると言っても建てるほど費用が掛かるらしい。やっぱり脱くずや家・古民家だと、住宅展示場の優しい兄ちゃんもそう言っていたものな。となります。皆さん残したい気持ちがあっても現実中々たやすく容易く事は進みあせん。こうしてたんばの景観を形成している「くずや家」や古民家は、徐々に姿を消していくのが、現状でしょうか。
諦めることなかれ。残せるものは最大限残しながら、費用を掛けず快適に暮らすことは可能です。ただそこには様々な工夫が必要となります。それにも増して一番大事なことは、自分の家の「良さ」を再認識し生かすことです。設計をする場合、所謂コンセプトを決めなければ、図面が描けないと同様、「良さ」が見出せないと暮らす楽しさが、見えてきません。善しにつけ悪しきにつけ長く住み続けていると、「良さ」が見えなくなってきます。頑張って「良さ」を発見することが大事なのです。
今後、不定期にブログにて、
たんばぐみ発行の"くちコミ情報誌"「きのわ」にて掲載されました、
才本の記事を掲載(連載?)させていただきます。
古民家や田舎暮らし等についてのコラムとなります。
是非ご一読ください。